【雑学】銀座のほかに金座もあった
日本一の商業地と言えば、おそらく、多くの人が、
「銀座!」
と答えると思います。
実際に、土地の値段も日本で一番高い場所です。
ただ大昔から銀座が日本一の商店街だったわけではありません。
銀座が日本一の商店街に成長していくのは明治以降の話です。
そもそも、当時の従来の江戸庶民の買い物場所は、今の浅草や上野で、お金持ちの買い物場所は日本橋や京橋でした。
明治維新以降に銀座で大火事が2回あり、それにより銀座は再開発が行われました。再開発後の銀座は東京に流入してきた、士族や華族の人々の買い物場所になり、今の銀座になったのです。
ですから、東京に昔からいる人や大阪など元々、日本一の商業地だった大阪の人などは、あまり銀座に拘りません。しかし、その他の人達にとっては、士族や華族の買い物場所である、憧れの場所になっていくのです。ですから、今でも地方で成功した方が、東京で店を出すなら「銀座」というのも頷けますね。
銀座は大昔から商業地だったどころか、埋立地だったのです。
徳川家康が幕府を開いてから、間もなく、埋立地として整備されて、今の銀座が出来上がりました。
ただ、埋立地と言っても、お台場、月島や勝どきのように、完全な海だったわけではありません。日比谷入江という入り江が、新橋から大手町あたりまであり、その入り江の中に隅田川によって運ばれた砂が溜まった砂州がありました。それを土台に埋立地を作ったわけです。
銀座が出来た当時は埋立地なので、砂洲の名前はあったかもしれませんが、地名はありません。
そして、埋立地になってすぐに銀座という地名がついたわけでもありません。その頃の銀座は今の銀座一丁目~四丁目付近を新両替町、五丁目~八丁目を尾張町、竹川町、出雲町といいました。
では、銀座という名前の由来はというと・・・
当時、静岡県で作られていた銀貨をこの新両替町に移したことにより、その銀貨を作っている役所を銀座役所と呼んだことから始まります。
さて、ここであることに疑問を感じませんか?
当然、銀貨があったということは、金貨もあったはずです。
よく、時代劇で悪い代官様に、さらに悪そうな商人が出てきて
代官「越後屋、おぬしも悪よの~。」
商人「いえいえ、お代官様ほどでは・・・」
二人「わっはっはは・・・」
などと言う、シーンに出てくる小判が金貨です。
その、金貨はどこで作られていたかと言うと・・・
金座役所という場所です。
その場所は金座役所から、金座という地名になったのですが、残念ながら今はありません。
「おい!うちの地名は『金座町』だ!」
という方、すいません。あとでちゃんと説明します。
では、その東京にあったはずの『金座』という地名は何故なくなってしまったのかというと・・・
現在は、その地名の場所そのものに大きな一つの施設が出来てしまったからです。
その施設とは・・・
「日本銀行本店」
※千代田区日本橋本石町2丁目。先の代官と商人の会話の越後屋さんは、まさにこの付近にあったとされます。それが、今の日本橋三越というのは有名な話です。
これで、金座という地名が無くなってしまったのです。
ただし、日本銀行の周辺に「金座通り」という通り名が残っています。
と、書くと本当に金座という住所があったように感じますが、実は、『金座』も『銀座』も、正式な住所ではなく、通称だったのです。
『金座』は金座役所のあった場所、『銀座』は銀座役所だった場所の通称だったのです。
そして、その通称の『銀座』の方は正式な住所として明治以降に採用されました。
『銀座』という通称が残ったのには色々な説がありますが、よく言われるのは、銀座は当時、今のような商業地というよりも、どちらかというと、職人などが住んでいる町でした。実際に、江戸時代の商業地としては日本橋や京橋の方が栄えていたという記述があります。
しかし、銀座の人たちが自分達のいる場所は『銀座』と言い続けたことにより、明治維新以降、江戸町名改正により、残ったという話が有力です。
では、金座は小判を作っていた場所は江戸の金座だけだったかというと・・・
駿府(静岡県)、甲府(山梨県)、佐渡(新潟県)、京都府でも作っていました。そのうちに江戸の金座に集約されます。
そのうちの一つの駿府にあった金座が、今でも静岡県静岡市葵区金座町という地名で残っています。
その他にも、広島県広島市の商店街に
『金座街商店街』
というのがあります。こちらは、金座役所とは何の関係もありません。
「銀座よりも、立派な商店街にしよう!」
という意気込みで名付けられたそうです。
今でも、日本橋に金座が残っていたら、面白かったかもしれません。
日本中にある〇〇銀座商店街が、「〇〇金座商店街」と二分していたかもしれませんね。
まずは1本、お電話ください。些細な疑問にも答えます。プロ、アマ、一般の方、すべて歓迎。